あなたは「責任感の強い」人ですか?

もし、周囲からそう評価されているならば・・

あなたはきっと、真面目で勤勉な側面をもっている方でしょう。

何かを頼まれたらきちっと手を抜かずにやり遂げるので、周囲からの信頼も厚いに違いありません。

そんなあなたは、自らの人生の主導権を握っている=「自由にやれている」実感はありますか?

え?いきなり話が飛躍するなーと、今思われた あ・な・た。

是非、この記事を読み進めてみてください。

決して飛躍した話ではない・・どころか、責任感にとても密接に関係した話だとわかっていただけるでしょう。

さらに、記事では英語表現における責任」とは?をみていくことを通じて、

必要以上に今のあなたを苦しめているかもしれない「責任感」や「責任」ということへの見方が変わったり広がったりして、心が楽になるかもしれません。

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関連する記事についても、こちらにまとめておきます。

あわせて読むことで、この記事への理解がより深まりますので、こちらの記事もぜひご活用ください。

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では、早速、本題に入っていきますね。

責任感を英語と日本語で考察

責任感」を英語に直訳すると Sense of responsibility という表現がでてきます。

しかし、実は、この言葉の使われ方のニュアンスは日本と英語圏では若干異なってきます。

ちなみに、日本語の「責任感」の意味を辞書で調べると・・

デジタル大辞典によれば、 “自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち”と書かれています。

日本では「責任感がある」というと、言われたことをきちんとやる、といった、その人の持つ性格的なイメージで使われることが多くありますね。

一方、英語圏では、responsible for ~で「〜について責任がある」という意味があり、責任範囲を示すのに使われることが多くあります。

その人がついている役職や立場に伴った責任を負っている、その責任を遂行する立場にある」といった、どちらかというと業務に伴うものというイメージですね。

例えば、He is response for accounting division.

といったら、彼は経理部門の責任者です、という意味になります。

大抵の場合、責任の範囲が厳格に決まっています。


その責任の範囲が明記されているのが、ジョブ・ディスクリプションというもので、外資系の企業では、入社時にそれを読んで納得した上でサインする、というところから会社との契約がスタートします。

与えられた責任範囲に関して、相応のパフォーマンスを発揮できる人が、その業務に対してresponsibleな人である、という見方というわけです。

きちんとやるべきことをやる、という事実は一緒でも、性格的な特徴としてのイメージが強い「責任感がある人」という日本語のニュアンスとは少し違い、英語の場合は、業務上のスキル的イメージが強いのです。

なぜそんな違いがあるのでしょうか?

その謎を紐解くために、responsibleという形容詞の名詞形である「responsibility」という言葉の語源について、一緒にみてみましょう。

責任の意味を英語で考えてみよう

責任という言葉に対応する英語は「responsibility」とされています。

でも、そもそも、日本語でいうところの「責任」と英語の「responsibility」は、本当に同じ意味で使われているのでしょうか・・?

Response(反応)するAbility(能力)

Responsibilityという言葉のresponseという部分の語源は、respondere(レスポンデレ) というラテン語で、意味は「応答する」という意味です。

反応がいいことをレスポンスがいいといったりしますよね?

この「応答する」にAbility(能力)という言葉が合体しているのが、Responsibility.

つまり、responsibilityとは、「応えられる能力」という意味になります。

すると、当然ながら、「何について?」「どの範囲に対して?」という疑問がわきますね。

そこが明確になっている必要があるから、英語圏でこの言葉が使われるときは、責任の範囲を厳格に決めているのです。

つまり、英語圏において使われる場合のresponsibility=応えられる能力 は、その対象となる範囲設定とセットということ。

ちなみに、このAbilityの意味する「能力」についてさらに詳しくみていくと、「自らの反応を選択する能力」という意味だとする説があります。

そう定義したのは、ヴィクトール・フランクル博士(Dr.Viktor E. Frankl)という世界的に著名なオーストリアの心理学者です。

フランクル博士は、1944年10月にアウシュビッツ収容所に送られました。

その時の体験を綴ったものが『夜と霧』という著書で、世界で900万部のベストセラーとなりました。

(原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。

その後、著者であるフランクル博士が1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。)


フランクル博士は著書の中で、次のような名言を世に残しています

 Between stimulus and response there is a space.  In that space is our power to choose our response. In our response lies our growth and our freedom.

 刺激と反応の間にはスペース(間)がある。その間(ま)において、私たちは自らの反応を選択する力をもつ。私たちが選択する反応の中に、我々自身の成長と自由がある。

ある出来事や状況に遭遇した際に、それに対してどのように反応するか?は自分で選択することができる・・・

あらゆる自由を奪われ、人間としての尊厳すらも奪われた、過酷な環境を生き抜いた人の言葉だけに、とても重みがありますね。

フランクル博士は、アウシュビッツ収容所の中にいる間でさえ、反応を選択する自由があると認識し、それを自らの成長の機会と捉え、行使していたのです。

もう一人、歴史上有名な人物の言葉を紹介したいと思います。

第二次世界大戦中に首相となり、危機にあった英国の戦争を勝利に導いたウィンストン・チャーチル氏の言葉です。

The price of greatness is responsibility.

偉大であることの代償は責任があるということである。

チャーチル氏は自らの決断によって英国を導いた行動が国民から高く評価され、偉大なリーダーと目されるようになったのですが、そこには同時に責任が存在する、といっています。

一国を率いるほどの裁量を任されるということは、その分だけの責任を負うことだ、ということを明確に自覚されていたということですね。

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自由と責任は表裏一体の概念

責任者には、その責任の範疇分だけ裁量が与えられています

決められた範囲内なら、どうするか?を自由に決めることができます。

なぜなら、任せられた業務範囲の責任を遂行する立場にあるから。

つまり、自由にできる(=采配をふるえる)ということと、責任は必ずセット、表裏一体の概念なのです。

好き勝手にやるけれど、責任は取らない、というのは通りません。

実際に行動する人とは別の人が、責任をとる、ということはままあります。

例えば、上司が「責任は俺がとる」というときは、責任は上司が持ったまま、「采配をふるえる」という部分だけを部下に委譲している状態です。

責任は俺がとるから思う存分やってこい!と言われたとしたら、それはとってもありがたい機会をいただいたということですねー

余談ですが・・

そう言った言葉通りに行動してくれるのは、素晴らしい上司といえるでしょう。

そういう上司は、部下に任せたプロジェクトがうまくいったときは

〇〇さんが頑張ってくれて」と部下の手柄にし、

うまくいかなかったときには、自らが前面に出て謝罪してくれたりします。

ですが、残念ながら中には、「責任は俺がとる」と言いながら、最後には逃げてしまってシラを切る人(笑)や、上記の素晴らしい上司像とは真逆の行動をとる人(うまくいったら手柄は自分のものにし、うまくいかなかったときに部下の不出来が原因だという)もいらっしゃいます。

え?思い当たることばっかりですって?(笑)

万が一、そうだとしても、だからといってふてくされてくすぶっていては、私たちにとってさらにデメリットが広がるばかりで、いいことはありません。

そうした出会いも含め、起こる出来事はすべて、私たちにとって何らかの意味があるからこそ、遭遇しているのです。

もちろん、いったいなぜ~~~!!!と叫びたい気持ちになることがあるのは、私も経験上よくわかりますが、残念ながら、叫んでも地団駄をふんでも、現実が変わるわけではありません。

そんなときは、この出来事は、私が何を学ぶために起きているのだろう?と考えると、新たな気づきのきっかけを得ることができたりしますよ。

どんな出来事も、自分の人生の糧にしたい!と思われるなら、よかったらやってみてくださいね。

どこの社会にもいろいろな人がいますが、その社会のマジョリティーを占めている考え方というものもあります。

ここでは、この記事を読んでくださっている方の多くが所属しているであろう日本社会における「責任」ということについて、もう少し見ていきたいと思います。

責任の日本での意味合い

責任」という言葉の意味は、デジタル大辞典によれば

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。

 例:「引率者としての責任がある」「責任を果たす」など

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。  
 
 例:「事故の責任をとる」「責任転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。
 
特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。
主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

と定義されています。

この「責任」ということに関して、もう少し詳しくみていきましょう。

責任を負う

辞書で「責任を負う」を調べると、

物事の結果に伴い、自分の責務として、生じた苦労や厄介ごとを引き受けること

責任をとること

とあります。

日本社会では一般的に、他者から期待されている反応や行動をその期待どおりに実行することを「責任を果たす」という言い方をします。

逆に、期待されている反応や行動を実践せず、思わしくない結果が生まれたことに対して、あとで罰を受けたり、握っていた権限や地位などを手放すことを「責任をとる」という言い方で表現します。

例えば、

責任をとって経営陣が退陣する、社長が辞任する、内閣総理大臣を辞任する

というようなものですね。

武士の時代には

責めを負って切腹する

といったこともあったと言われていますね。

では、「責任」のあとに続く動詞の部分が変わると、意味はどのように変化していくでしょうか?

責任がある

辞書で「責任がある」を調べると、

動因または原因である

という意味がひとつあります。

“こうなったのは、あなたのせいじゃないですか!”という意味合いで、相手の非を責める際や認める際などに使われることもありますね。

例えば、

「あなたにも責任はありますよね?」など。

自分自身に対して

「私にも責任がある」というように使うこともあります。

上述したのは、起こったことに対して責めを追う、という意味合いで使われる場合ですが、「責任がある」という言葉には、

責任または信用に値する、あるいは、責任または信用を要求する

という意味もあります。

“立場上当然負わなければならない任務や義務”がある、といった事実をそのまま描写するかたちで使われます。

例えば、

保護者としての責任」、

引率者としての責任」、

マネージャーとしての責任」など。

この意味合いで使う場合は、立場や役職とセットで使うのが自然なようですね。 英語での使い方にもっとも近いかもしれません。

責任を押し付ける

辞書で「責任を押し付ける」を調べると、

本来、責任や罪のない人にそれを負わせること

という意味がひとつあります。

別の言い方では、

汚名をきせる

濡れ衣を着せる

などがありますね。

例えば、組織内で何かマズイことが起きたとき=社会的に非難を浴びるような状況が生まれたときに、誰かをスケープゴートにして、本当に関わっていた人たちは素知らぬ顔で逃げてしまう・・

そのような状況において使われることが多いです。

日本の時代物(たいていの場合、江戸時代中期の江戸の町が舞台)のテレビ番組の中でよくみる光景だったりもします^^ 

悪い役人が権力におもねる商人などと結託し、はかりごとをして不当に金儲けした挙句、まったく関係のない庶民の誰かにその罪をきせて自分たちは素知らぬ顔・・・

そこに正義の味方として、権威ある人(将軍様だったり、水戸黄門様だったり、町奉行だったり)が現れ、悪事を暴いて成敗する

という鉄板ストーリー、みたことありませんか?

あの中で誰かに罪をきせている状況が、まさに「責任を押し付ける」ですね。

責任を押し付ける」には、このように罪のない人に責任を負わせる、という意味がある他、

本来、自分が負うべき責任を他人の責任とすること

という意味もあります。

本来は、上司がとるべき責任範疇であるにも関わらず、指示を受けて実務を行った部下が責任をとらされて左遷されたり降格される。

あるいはそこまでいかなくとも、周囲からの評判と 信頼を落としてしまうデメリットを被るのも、「責任を押し付ける」という行為に当たりますね。

実際は具体的な指示や従わざるを得ない圧力を受けていても、口頭の場合がほとんどなので、あとで上司に「言ってない」と言われたらそれまで・・

部下は“梯子を外された・・”と嘆くしかなかったりします。

数年前、大学のラグビー部で起きた、故意に相手チームの選手に怪我を負わせた事件にも通じる、後味の悪〜い出来事ですよね。

本当はどうだったか?は近くにいた周囲の人たちはたいていわかっている、とはいえ、「責任を押し付けられる」当事者となったら悔しいことこの上ないでしょう。

私も少なからず経験があるので、その気持ちはよくわかります。

当時の私は悔しい・・!と泣き寝入るしかなかったのですが、その後、見事にそのような状況に対応している人に出会いました^^

今後もし、あなたが同じような状況に出会ったときに役立つかもしれないので、ご参考までにシェアさせていただきますね。

その人は、1ヶ月だけ私の上司だったアイルランド出身の男性だったのですが、あるとき、部門のトップからの指示に激しく反対したことがありました。

激しい議論の末、彼が上司に言ったのは、

わかりました。従います。なぜならあなたが上司だから。

ただし、自分はこの件に明確に反対したということを記録しておいてください。

それを明確に、名前入りで書いておくなら、従いましょう。


という言葉。

組織の中で働いている以上、上司の指示に従うというルールには従いつつも、自分の信念を保持し同時に身を守る術があるのだなぁ・・と、思いました。

そのような事例を参考にする必要がないことを願いますが、何かのときにあなたのお役にたつことがあれば嬉しいです^^

さて、ここまで、「責任」+動詞 の言葉の意味についてみてきましたが、いかがでしたか?

次は、責任「感」について、一緒にみていきたいと思います。

責任感は日本でどう使われる?

責任感、という言葉をきいて、あなたはどんなイメージを思い浮かべますか?

しっかりした人

信頼できる人

責任感」という言葉は、そのようなイメージと結びつきやすい気がします。

そう、多くの場合、私たちが抱くのは肯定的なイメージではないでしょうか。

責任感が強い、は他人に都合のいい人間?

責任感とは、“自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち”だと、前に書きました。

責任感の強い人」とは、その気持ちが強い人。

責任感の強い人」には、真面目で勤勉な人が多いという特徴があります。

頼まれて「はい」と言ったら、きちっと手を抜かずにやり遂げるので、周囲からの信頼も厚い。だから他人はまたその人に頼みたくなるのですね。

“仕事はできる人に集まる”とよく言われますが、できるけど、やったりやらなかったりで信用しきれない・・という人には、あまりモノを頼みたくないですよね?

だって、頼んだものができてくるかどうか、やってくれるかどうか?をずっと心配していないといけないですから。

それなら、天才的にすごいレベルでなくても、平均以上のクオリティーで仕事ができて責任感が強い人に頼みたい、と思うのはごく自然な人の心理でしょう。

責任感が強い」人は、自分が役立つ人間だと評価されると嬉しい、という側面も併せ持つことが多いので、自分が頼まれること自体に喜びを感じるという傾向があります。

他人(頼みたい人)と本人(頼まれるのが嬉しい人)双方が幸せな気持ちを味わえる・・だから、この関係性は続きやすい、ともいえます。

このとき、頼まれごとの内容そのものが、頼まれた本人にとってもやりたいことであるならば、それは最高の組み合わせですね。

しかし、必ずしもいつもそうとは限らないですよね。

やりたいことではないにも関わらず、断れない、やってしまうという場合は、もしかしたら注意が必要かもしれません。

特に、人から頼まれたことに応えているときにのみ自分の存在価値を感じられる、というような場合は要注意

人からモノを頼まれることが自己重要感を満たす唯一の方法になっていたり、頼まれたことをやり遂げることを通じて達成感を感じることが、唯一のモチベーションの原動力になっていたりするような場合ですね。

そのような場合、気をつけないと他人からの雑多な頼みごとをこなすことに貴重な人生の時間の大半を費やすことにもなりかねません。

頼まれごとをこなすことを通じて、自己重要感や達成感を感じ、同時に喜びも得られるのですから、一見、非の打ち所がないベストの方法のように思えます。

頼んだ人も頼まれた人もハッピーだし、世間的にもよくできる人、いい人、という評価をもらうことができるし。

さらに、パフォーマンスが良いということで出世が早かったり、給与も早く上がったりするかもしれません。

それってつまり、続けるに足る理由があちこちにあるということ。

だからこそ、ある意味、危険なのです。

あなた自身の人生を生きる、という意味においては。

なぜなら・・。

その人が生活の多くの時間とエネルギーを費やしている頼まれごとは、実はその人でなくてもいいものかもしれないから。

頼む人にとっては、早く確実にこなしてくれるなら、究極のところ、誰でも良かったりします。

頼まれたのが仮に“あなた”だったとして。

あなたに頼んだのは、もちろん、あなたへの信頼があったからこそです。

それは事実だけれど、他にも、頼みやすかったから、とか、身近にたまたまいたから、という理由もあるかもしれません。

代替えがきく、ということは、つまり、あなたでなくてもいいってこと。

あなたは、本当に、あなたでない誰かがやってもいいものにあなたの人生の貴重な時間とエネルギーを費やしたいですか?

例えば会社組織で考えてみると、何を頼んでもうまくこなしてくれる部下がいてくれるのは、

上司にとっては本当にありがたいこと。

ハイハイと嫌な顔一つせずに仕事を引き受けてくれるのであれば、なおさらです。

何かというと頼りにしてしまいがちになるのは、人間ならば自然なことといえるでしょう。

もちろん、そういう部下は上司の覚えもめでたいでしょう。

いい上司であれば、本人の仕事ぶりを評価して、望みに繋がるポジションに推薦してくれたり、将来につながるプロジェクトに抜擢したりしてもらえる、というメリットを享受できるかもしれません。

しかし、一方で、残念ながら、世の中には自分のことしか考えていない上司が存在しているのも事実です。

自分の便利のためにいつまでも重宝して部署から出さない、などの行動にでることもあります。その結果、本人は適切なタイミングでのチャンスを逃してしまい、その後のキャリアに支障が出ることも起こり得ます。

運悪く、そのような上司のもとで仕事をすることになった「責任感が強い」人は、その恰好の餌食となってしまう可能性もあるのです。

自分に頼みごとをしてくる人がどんな人間性をもった人なのか?はよく見た方がいいかもしれません。

あとから気づいて悔しい思いをしたくはないですよね?

自分の人生の舵取りはあくまで自分で!が原則です。

では、頼まれごとに応じて好評価を得ながらも自分の人生の舵取りをしっかりするにはどうしたら良いのでしょうか・・?

それには、自分の中にしっかりとした判断軸を持っておくことが大切です。

え?そんな、いきなり判断軸なんていわれても・・と思われた あ・な・た。

そんなあなたに一つ、ベースとなる判断軸のヒントをお伝えするならば、頼まれごとに応えようとする際に、自己犠牲が入っていないかどうか?を、自分でチェックするといいですよ。

責任感=自己犠牲の精神ではない

ここでいう“自己犠牲”とは、例えば・・・

自分の時間を削ったり、大変なのを我慢してでも頑張ることをさします。

具体的な例をあげると、時間を生み出すために睡眠時間を削る、とか、本当なスポーツジムや習い事に行くはずだったり友人と会うはずだった予定をキャンセルする、など。

それ、当たり前じゃない!?と今思われたあなた^^

日頃、「責任感が強い」と評価されていたりしませんか?(笑)

ひょっとすると、その「当たり前」は、本当は「当たり前」ではないかもしれませんよー

かくいう私は、上述したようなことをかつて、日常的にやっていました。

それこそ当たり前だと思っていたので、犠牲を払っている自覚もありませんでした^^;

とにかく仕事を最優先する、というのが当時の私の中の常識だったからです。

どんなに楽しみにしていた久しぶりの集まりも、仕事が終わらないのであれば仕方ない・・と諦め、当然のように断りの電話を入れていました。

今思えば、貴重な出会いを何度も逃していたのかもしれません(笑)


その後、進行ガンが発覚し、突如、すべての活動をストップし入院・手術・抗がん剤治療へ・・という体験と並行して自分と見つめ合う作業を続けた結果、ようやく気づいたことが一つあります。

それは・・

頼まれごとを完遂するために、睡眠時間を削る、とか、本当なスポーツジムや習い事に行くはずだったり、友人と会うはずだった予定をキャンセルしたり、、、

そんなことを当然のようにするのは、自分をとてもぞんざいに扱っている、言い換えれば大切にしていないことの表れだったのだ・・ということでした。

そのような自己犠牲を払ってでも頼まれごとを完遂する人は、自分の生活ペースを乱してでも頑張って約束を果たすのが当たり前、と感じています。

すなわち、それがその人にとっての普通の基準レベルなので、他の人にもそれを期待します

ごく自然にそうなってしまうのです。

とはいえ、いかに精神力があって責任感が強い人でも、他人のことまではコントロールできないので、自分がやる時とは違って、期待通りにいかない時も、もちろんあります。

むしろ、期待通りにいかないことの方がおおいかもしれません。

そんな時、当然と思って期待しているだけに、そうならなかった(=頼まれごとが果たされなかった)状況に対して、ストレスを感じやすくなります。

責任感とは、“自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち”だと、お伝えしました。

気持ちに期待して裏切られると、こたえますよね。

それを何度も経験することが、精神衛生上いいはずがありません。

他者に対する期待の基準値の大元は自分に対する基準値です。

自覚はなくとも、そこに自己犠牲が入ってしまっている場合、意識して調整するくらいでようやく、ちょうどよい加減に近づけるかもしれません。

頼まれごとをしたとき、自分がそうしたい!という気持ちから動くのは構わないのです。

それをすることが自分の中で重要と感じるからする、というのでもいいでしょう。

ただし、度を越さないように注意することが大切です。

他者から感謝され、自己重要感と達成感や充実感を得られる、「頼まれごとに応える」という行為は、ある種、麻薬のようなもの。

感謝されたり、自己重要観や達成感・充実感を感じる手段の一つが、頼まれごとに応えることであるなら問題はありませんが、そうした感情を感じる手段が頼まれごとに応えることのみ!となっている場合は要注意です。

頼まれごとに応える機会がなかったら、自分の重要性を感じられない、とか、達成感や充実感を感じられない、というところまできてしまったら、それは中毒ですよー。

頼まれごとに限らず、他のどんなことであっても、得たいものを得る方法がその一つだけに依っている、というのは、構造的にどうしても偏りを生みやすいんです。

それがだめになったら困る・・!と思うから、なんとしてでもその方法が成立し続けるよう守ろうという方向に向かいがちです。

それは人間の自然な心理といえるでしょう。

そうなると、平易に状況をみて客観的な判断をするのは難しくなります。

こうあってほしい・・!!という気持ちが強い分だけ、見方にバイアスが入るからです。


たとえば、投資でも、分散投資でリスク管理しましょう、といわれますよね?

いくつもの投資先に分散してお金を投入しているならば、万が一、予想だにしない事態がおきてこちらがダメになったとしてもあちらがある、というように実質的なダメージは小さくてすみ、そのおかげで精神的にも安定していられるからです。

これがもし、たった一つの会社にだけお金を投入していて、それもそこから得る利益が日常生活のお金の流れの中に組み込まれている状態だったら、どうでしょうか?

そこで、同じく予想だにしない事態に遭遇したとしたら。


実質的な損失も大きいですし、加えて精神的な打撃も大きくて、気持ちが不安定になってしまいそうではありませんか?

分散投資というのは、お金を増やしたい!という願望を、より安定的・長期的に叶えるために、多くの人の経験値から導き出された、いわば賢者の智慧というわけです。

感謝されたい!自己重要観や達成感・充実感を感じたい!というのは、人間のごく自然な願望だと思います。

それも、一度感じた経験があるからもういい、というものではなく、何度でもウエルカムだし、できることならより頻繁に感じていたい感情ですよね?

それらの感情を、より安定的・長期的に得たいならば・・分散投資の考え方を同じようにあてはめることができると思いませんか?

日常の生活に支障をきたさない範囲で、仕事もその他の行為もやっていくのが、長く続ける秘訣です。

それはすなわち、責任感を発揮し続ける秘訣でもあります。

健全な責任感の発揮の仕方とは、決して、自己犠牲を伴うものではないのです。

では、そもそも「責任」とはどこからやってくるものでしょうか?

責任は他者から押しつけられるものではない

責任」には

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。
 例:「引率者としての責任がある」「責任を果たす」など

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。例:「事故の責任をとる」「責任転嫁」

といった意味があることは先に紹介しましたね?

どちらも、周囲の目という社会的な圧力(プレッシャー)が加わることが多く、責任を「取らねばならない」という雰囲気になりがち、という傾向があります。

加えて、日本で生まれ育った場合には、それがあるべき姿、正しい対応の仕方だ、ということを幼い頃から刷り込まれていることがほとんどなので、自分自身に対して「ねばならない」という方向のプレッシャーを加えることも多いといえるでしょう。

〜ねばならない」という感覚は、どうしても、周囲からの圧力によって致し方なく・・というイメージが伴い、自らの意思で行うというイメージから遠くなります。

しかし、本来、責任」とは他者(や社会という周囲)から押し付けられるものではありません

いやいや、私、責任を押し付けられること多いですけど〜と、今、思われた あ・な・た♪

他人に責任を押し付けてしまう人の心理状態を、知りたいと思ったことはありませんか?

少し、一緒にみてみましょうか。

自分がした決断や行動が与えた影響や結果に責任を持つ、ということは、その際に伴って生まれ出る自分や周囲の感情(喜びも恐れも)や考え(賛同も批判も)全て受け止める、ということなので、実は簡単なことではなかったりします。


全て良い方向に展開している時

あなたが下した決断は正しかったと思われ、関わることになった人々からも文句は出ず、あなた自身の行動への賛同や賞賛の声がたくさん聞かれ、結果としてのパフォーマンスも素晴らしい!!

となれば、それらすべてを受け止めるのは難しいことではないでしょう。

問題はうまくいかなかった時です。

あの決断は間違っていたかも・・という疑念や自責の念、外部からの批判や非難、それらが耳に入った時のザワザワ感、皆からよく思われていないかも・・という恐れ。

結果としてのパフォーマンスが良くなかった時の自分に対する評価や将来への影響、などなど。

とめどなく負の感情スパイラルが回っていくような状況に身を置いた場合です。

そこから逃げ出してはるか遠くに行ってしまいたい!

瞬きしたら目が覚めてこの現実は夢だったことになってほしい!

といった気持ちが出ても不思議はありません。

むしろ自然な反応、といえるかもしれませんね。


そこで踏みとどまり、正面から全てを受け止めた上で、適切な対応をとるのは、ある種の勇気が必要なのかもしれません。

そして、何より大切なのはきっと、自分と自らの人生に対する誇りなのではないでしょうか?

責任は自ら選んで手にするもの

先に記述したような状況において、それでもなお、そこに踏みとどまり責任をとる、という選択をするかどうかは、自分という人間のあり方に対して、また、どんな行動と足跡を自分の人生に残したいのか?ということへの想いをどのように抱いているか?によるのではないでしょうか。

つまり、責任をとる という選択をするかどうか、は、どう生きるか?の選択なのです。

例えば、「責任を取らない」「責任から逃げる」という選択をした場合、どんな人生になるか?を考えてみましょう。

責任を取らない」人というのは、当然ですが「責任を取りたくない」と思っているわけです。

できれば人から非難されたくない、自分の評価を下げたくない、という思いは誰しもがもつ自然な欲求だとは思いますが、それがとても強い=人から非難されたり、自分の評価が下がることを強烈に恐れている 人、ということもできます。

そのような状況に陥ることを強烈に恐れていて、そうなりたくない!と強く思っているわけですから、何か事件が勃発した際に真っ先に考えるのは、

責任が自分に降りかかってこないか?

どうかと、同時に

責任を取らなくて済む方法はないだろうか?

ということでしょう。

そこからの対処は人それぞれですが、

○○さんの指示に従っただけ

というような発言を、これまでの人生のどこかで聞いたことがある人もいるのでは?

この発言の裏にある心理は

自分は従っただけだから、自分には責任はない

ですね。

自分が何かを決断する会議に参加していた場合でさえ、

みんながやるといったから、特に反対はしなかった

というような言い方をする人もいます。

この発言の裏にある心理は

自分は積極的に賛成してはいない。だから、自分には責任はない

ですね。

このように「責任を取らない」「責任から逃げる」人の行動に共通するのは、自らの判断で明確に決断したり行動する選択をしていない、ということです。

つまり、自分の日々の決断や行動に対して、自分で主導権を握っていないのです。

その人の思考と行動の傾向ですから、仕事だけそうだけど、プライベートではまったく違う!というのは、なかなか考えにくいですね。

ほとんどの場合、すべての生活においてそうでしょう。

自分で自分の毎日の生活の主導権を握らない人生。。

責任を取らない」「責任から逃げる」という選択は、自分で人生の主導権を握る生き方を放棄する選択である、ともいえるんですね。

それは一見すると楽そうにもみえますが、本当に楽でしょうか?

常に、

自分に責任が降りかかってこないか?

と心配しながら、何かおこったときには、

どうしたら責任から逃れられるだろう・・?

と必死で考えて対応する生き方。

他人や周囲でおこる出来事によって毎日が左右される、自分の人生の主導権を明け渡してしまっている状態って、実はすごく不自由ではないでしょうか?

自分がそのとき拠り所としている場所や人に、自分の代わりに責任を担ってもらうためには、その場所や人が要求する通りに行動する必要があります。

求められること、という制約の中で判断したり行動したりしなくてはならないのですから、不自由ですよね。

では、逆に、自分で自分の人生の主導権を握った場合はどうなるでしょうか?

自分の自由になる(主導権を握る)

フリー百科事典の『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

責任とは、社会的に見て自由があることに伴って発生する概念である。自由な行為・選択があることに伴い、それに応じた責任が発生する。

と書かれています。

例えば、ある行動や結果に対してAさんには責任がある、とされているとき、Aさんには、その行動をするかしないかを判断し選択する余地がある、というのが必ずセットになっているということ。

すなわち、Aさんは自由意志によって、その行動をしないこともできた、という前提があるということです。

このように、「責任」と「自由」というのは、常にセットで存在していて、切り離すことはできないものなのです。自由のないところに責任は存在しないし、責任のないところに自由も存在しない、というわけですね。

責任を負うとは、自由にやれること

つまり、「責任を負う」というのは、「自由にやれる」ということを意味します。

英語のresponsibility=応えられる能力は、自分の責任範囲とセットで使われる、と先に書きました。

一般的には、ポジションや役割にともなった責任範囲について語られることが多いですが、その対象が人生だったらどうでしょう。

自分の人生に対する私たちの責任範囲ってどこまででしょうか?

それって・・

全部、

ですよね。


私たちは誰しも自分の人生すべてに対して責任を負っているのです。

そのように自覚しているとしていないとかかわらず。

会社勤めで自分で決められる範疇なんてほとんどない生活だよー!と、もしあなたが感じているとしても。

会社に勤める、という働き方の形態を選んだのは“あなた”


入りたいと望んだ会社に入社したとは限らなくても、誰かに義理立てして、という理由であったとしても、最終的にその会社に行くと決めたのも“あなた”


そこには、それを選ばないという選択肢もあったわけなので、自由意志のもと、“あなた”最終的にその道を選んだわけです。


与えられる責任範囲が非常に限られる日々をずっと送っていると、そもそもその状態が待っている道を選んだのは自分だった、ということを忘れてしまいがちです。

けれど、私たちは皆、自由意志のもと選んだ選択の積み重ねの結果、今の現実を実現しています。


もっというと、今の生活を辞めたい、変えたい、ともし思うなら、それをやめる選択肢もあなたはもっています

現代の日本において、衣食住を保護者に依存せざるを得ない子供の段階を過ぎた成人の中で、本当の意味で“選択肢がまったくない”人なんていないでしょう。

もともと私たちは、自分の考えに基づいて選択する、「自由にやれる」人生を手にしているんです。

そして、全員、その自由意志を行使して生きています。


自由意志には、「決断しない」(何も選ばない=現状を変えない)という選択も、もちろんあります。

決断しない」という選択肢すら選ぶ自由が、私たちにはあるのです。


そして、どんな選択をしたとしてもそこに良い悪いはありません。

大切なのは、自分で選んだという自覚をもち、選んだ結果としての今に責任を負っているかどうか、です。

その自覚があるかないかによって、その人の人生はまったく異なるものになってきます。

もしも、自分で選んだという自覚があれば、自分は自分の人生をコントロールできている=「自由にやれている」と思えるでしょう。

しかし、本当は自分で選んだにも関わらず、忘れてしまっている、あるいは、そもそも自ら選択したという自覚がありません。


他者や社会の状況によって決められたと錯覚している(○○さんに強く勧められたから断れず、とか、生活のために致し方なく選んだ、など)場合は、自分の人生をコントロールできている=「自由にやれている」とは思えないでしょうね。

自分の人生の主導権を握っているかどうかの違いは、実はそこにあります。

精神的に自立した人の特権

目にみえる現実の状況だけをみても、その人が自由に生きられているかどうか、はわかりません。

たとえば、自分でもいくらあるかわからないくらいたくさんの資産があって、生活のために働く必要もまったくない(=お金も時間も好きなように使える状態にある)、という人であっても、

自分はこの家に縛り付けられている(家を継ぐことが生まれたときから決められていた)

本当はバックパッカーで世界中を旅したかったのに、そんなみっともないことは許さないといわれてできなかった。。

というようなことを思っているとしたら、その人はまったく自由にやれている」とは感じていないですよね?

なぜ、「自由にやれていると感じられないか、というと、その人は、自分では何も決めることができなかった、と思っているからです。


もちろん、本当はそんなことはありません。

成人した大人であれば、どんなときも別の選択肢はあったはずです。


ただし、それを選んだら、選んだ結果も伴ってきます。


この人の場合は、もしかしたらそれは、家族と訣別して家をでるということだったかもしれなません。

その結果、今、手にしているような財産は入ってこず、経済的にはとても苦しい状況を経験することになった可能性もあります。


それを受け止め、引き受けるのが、自分の人生の選択に「責任を負う」ということです。

例にあげたこの人の場合、ひょっとしたら経済的に苦しい生活を経験することになるかもしれない、気持ち。

その「責任を負うことを避けたいという気持ちの方が勝ったから、家族の反対を押し切って家をでる、という選択を選ばず、家にとどまるという選択をしたわけです。

そうであっても、自分で選んだという自覚があれば、そこには、その結果である今の状況を受け止め引き受けること、すなわち「責任を負う」ということが伴います。

だから人生の主導権は自分が握っているという感覚をもてるはずです。


つまり、この人が自分の人生の主導権を握っていると思えないのは、どの選択をしたか?が問題ではないのです。

自分で選んだ、決めた、という認識を伴っていない=その結果に責任をもつ、起こることに対して責任を負う、という覚悟を伴っていないからなのです。

自分の人生の主導権を握っている=自由にやれている感覚をもてるのは、選択の結果に責任を負う、という覚悟をもった精神的に自立した人だけが得られる特権、といってもいいかもしれません。

どんな場所でどんな生き方、働き方をしていようと、それを自分が納得したうえで選択したという自覚があり、その過程も結果も受け止め引き受けているのであれば、

それは、人生の主導権を自分で握って生きている、すなわち自分の「自由にやれている」生き方なのです。

面倒を避けて自分が我慢することではない

一方で、他者からどんなに

あなたは責任感のある人だ

あなたは立派に責任を果たしている

と称賛されようとも、あなたの中に

“引き受けたくて引き受けたわけではない”

という感覚がもしあったなら、それは健全な「責任」の負い方とはいいがたいです。

自ら進んで手にしたのではなく、たまたまついた役職や役割に伴って付随しているから、その「責任」を引き受けているとしたら。

どこまでも「責任から逃げる」ことを考えている人とは違い、責任をとっていないわけではありません。

それもしっかり最後までやり遂げる、まさに「責任感」のある人。


周囲から称賛され信頼されるというメリットもついてきます。


ただ、このような場合、責任を引き受けるという行動自体は確かに実践しているかもしれませんが、自らの人生の主導権を握った生き方とは言い難いでしょう。

なぜなら、“引き受けたくて引き受けたわけではない”という感覚があるということは、自分は被害者である、という意識がどこかにあることにほかならないからです。

被害者の意識は、誰かに決められてこうなった、自分の意思とは関係なく無理矢理させられた、というニュアンスを含みます。

自分の人生の主導権を握ることができていない、という感覚です。

自ら進んで手にした「責任」ではないので、

自分がここまでしなければならないのか・・?

という不満を常に抱えているかもしれません。

もっと、ちゃんとやってくれよ」と他の人に対しての文句を飲み込みながら、“責任をとる”とされている行為をしているかもしれません。

そんなくすぶる思いを抱えながらも言葉にしないのは、それをいうことで起こり得る反応や実際に返ってくる言葉、そこから始まるやり取りを考えると・・

そんな面倒なことをするくらいなら、黙って我慢してやったほうがいい、どうせやることになるのは変わらないんだから。

そんな風に思っているからかもしれません。


それって、ずいぶんと苦しい生き方ですよね。。


それでも、その置かれた立場や役職を放棄しないのは、それを手放してしまったら困ったことになる(例えば、収入を得られなくなる等)という恐れが、心の根底にあるから。

自分の人生の主導権を握ることができていない、ということは、自分で自分の人生のコントロールができないという不安を常に抱えながら生きるということに他なりません。


恐れ不安を抱えながら生きる毎日・・

しんどいですよね。。


こう考えてみると、自ら進んで「責任」を手にしたわけではないけれど責任をとる行動はしているという場合は、周囲からの評価や称賛とは裏腹に、本人の心のうちは平安とは程遠いということも在り得ます。


それは、本来の「責任を負う」という姿とは、だいぶかけ離れてしまっています。

責任をとる行為はしているものの、自由にやれていないし、自由にやれるとも思えていない。。

それって、とても残念な状態ではないでしょうか。

正しい責任感を持って自立した大人として生きよう

本来、責任を負う」ということは、「自由にやれる」ということとセットです。

同じように責任をとる行為を実践していたとしても、自ら進んでその「責任」を手にしたか否かによって、自分の人生の主導権を握って生きているかどうかが分かれます。

見方をかえれば、私たちには、自分の人生の主導権を握って生きるかどうかを選択する自由さえ与えられているということですね。

そうであるならば。

あなたはどんな人生を送ることを選択しますか?


もしもあなたが、自分の人生の主導権を握って生きる!という選択をされるなら、その第一歩は、自ら進んで「責任」を手にしにいくことかもしれません。

何らかのポジションや役割を担うことによって、それらに伴う「自由にやれる範疇を手に入れると同時に、セットである「責任を負う」という方法もそのひとつでしょう。


もしあなたが、今、会社勤めをしていたり、何らかの組織やグループに属しているならば。

たまたま役職についちゃったけど、損な役回りだぁ・・などと被害者意識をもちながら「責任」をとるのがいかにもったいないことか、すでにおわかりですね。


なぜなら、それは、責任を負う」という行為そのものは実践していながら、人生の主導権を握って生きている!という実感を得られないよう自ら仕向けている、という残念な状態だからです。

行為そのものは変わらなくても、自ら進んで「責任」を手にしたのだという認識があるだけで、自分の人生への実感は180度変わります

誰かにコントロールされる人生から、自分で人生の主導権を握る人生へと、180度転換するのです。

もちろん、ポジションや役割をもたずとも、人生の主導権を握って生きることはできます。

こうしよう!と決断し、それをおこなう過程やおこなった結果について、しっかりと受け止める覚悟をもつのは、自ら進んで「責任」を手に入れにいく行為にほかなりません。

自分で決めて行動し、それにともなっておこることを自分で引き受ける。

とてもシンプルですね。


そのシンプルなことを日々、積み重ねていく生き方こそが、人生の主導権を握って生きることにほかなりません。


つまり、そうしようと思えば、誰にでもできることなのです。

必要なのは、人生の主導権を握って生きると決め、その生き方を選択するということだけ。


その選択の先には、自分で決めて「自由にやれる」ことと一緒に、その過程や結果に対して「責任を負う」ということがセットで存在しています。

人生の主導権を握って生きるのに、ポジションや役割は必ずしも必須条件ではないのです。


ただ、ポジションや役割をあえて担う、という選択肢を選ぶと、他者や社会との関わり方を深めたり広げたりしやすい、ということはいえるかもしれません。

なぜかといえば、ポジションや役割が、周囲に与える影響力が大きいものになればなるほど、「自由にやれる」および「責任を負う」範疇も広がっていくからです。


たとえば、前述したチャーチル氏のように(^^)

自分が関わる世界、自分を活かせる世界、貢献できる世界が広がっていくのですね。


正しい責任感をもって自立した大人として生きていく=自分の人生の主導権を握って生きていく、と決めたあとの道筋は人それぞれです。

それこそ、どんな人生をつくる自由も手にしているわけですから、一人ひとり異なる色とりどりの人生が展開していくわけですねー


共通するのは、自分で決断し選択したという自覚をもち、それにともなって生まれる過程や結果に対して責任を負う、というところだけ。

誰かのせいにしたり、環境のせいにしたりするということがなくなるので、基本的に文句”や“愚痴”とは無縁の生活になりますね。


そう、自立した大人として生きると、精神衛生上もとても健やかに過ごせるのです(^0^)


とはいえ、自分で決断し選択したという自覚をもち、それにともなって生まれる過程や結果に対して責任を負う、と聞くと、一瞬、怯むこともあるかもしれません。

しかし、自分で自分の人生のかじ取りができるという感覚は、実は、自分の人生が他者や社会によって翻弄されるかもしれないという不安や恐れから離れ、健やかに毎日を生きることに直結する、素晴らしい感覚なのです。


もしあなたが、今はまだそうなっていると言い難いけれど、自分で自分の人生のかじ取りができる感覚ぜひ味わってみたい!と思われたなら。

ともに、正しい責任感をもって自立した大人として生きることを選択していきませんか?

この記事のまとめ

ここまで、「責任感」ということについて、

英語で考えると?

それって本当に責任感なのか?

という疑問から出発し、さまざまな切り口からみてきました。

かなりボリュームがあったので、ここで改めて、ポイントをおさらいしておきますね。

【1】責任感を英語で考えると?

・日本語:責任感とは“自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち”

・英語:responsible for ~「〜について責任がある」責任範囲が一緒に示される

【2】責任を英語で考えてみよう

・責任という言葉に対応する英語は「responsibility

 (1)Response(反応)するAbility(能力)

  ・responsibility=応えられる能力 は、その対象となる範囲設定とセット

  ・Abilityの意味する「能力」とは「自らの反応を選択する能力」のこと

  ・どのように反応するか?自分で選択することができる

 (2)自由と責任は表裏一体の概念

  ・責任者には、その責任の範疇分だけ裁量が与えられる

  ・「責任は俺がとる」:責任はその人が持ちつつ裁量の自由は他者に委譲している状態

  ・この出来事から学べることは何か?と考え、あらゆる経験を人生の糧にする

【3】責任の日本での意味合い

・立場上当然負わなければならない任務や義務

・自分のした事の結果について責めを負うこと(特に、失敗や損失による責め)

・法律上の不利益または制裁を負わされること

 (1)責任を負う

  ・物事の結果に伴い、自分の責務として、生じた苦労や厄介ごとを引き受けること

   ・責任を果たす:他者から期待されている反応や行動をその期待どおりに実行すること

   ・責任をとる:思わしくない結果に対して罰を受けたり、権限や地位などを手放すこと

 (2)責任がある

   ・動因または原因である(相手の非を責める際や認める際などに使われる)

   ・責任または信用を要求する(立場上当然負わなければならない任務や義務がある)

 (3)責任を押し付ける

   ・本来責任や罪のない人にそれを負わせること

   ・本来自分が負うべき責任を他人の責任とすること

   ・組織のルールに従いつつ、自分の信念と身を守る方法(参考事例)

【4】責任感は日本でどう使われる?

   ・「責任感」という言葉に私たちが抱くのは、ほぼ肯定的なイメージ

 (1)責任感が強い、は他人に都合のいい人間?

   ・「責任感の強い人」は真面目で勤勉な人が多く、周囲からの信頼も厚い

   ・「責任感が強い」人は自分が頼まれること自体に喜びを感じるという傾向が強い

   ・自分の人生の舵取りはあくまで自分で!が原則

 (2)責任感=自己犠牲の精神ではない

   ・“自己犠牲”:自分の時間を削ったり、大変なのを我慢してでも頑張ることをさす

   ・「頼まれごとに応える」という行為には麻薬のような魅力があり、中毒になりやすい

   ・頼まれごとに応えようとする際に、自己犠牲が入っていないかどうか?チェック

【5】責任は他者から押しつけられるものではない

社会的プレッシャーを感じて、致し方なく責任をとっている人もいる

・本来、「責任」とは他者(や社会という周囲)から押し付けられるものではない

自分と自らの人生に対する誇りが何より大切

【6】責任は自ら選んで手にするもの

   ・責任をとる という選択をするかどうか、は、どう生きるか?の選択

   ・「責任を取らず逃げる」のは自分で人生の主導権を握る生き方を放棄する選択

   ・自分の人生の主導権を明け渡してしまっている状態は、すごく不自由

【7】自分の自由になる(主導権を握る)

   ・「責任」と「自由」とは常にセットで存在しており、切り離すことはできない

 (1)責任を負うとは、自由にやれること

  ・私たちは誰しも自分の人生すべてに対して責任を負っている

   ・今生きている人生は、我々が自由意志のもと自ら選んだ選択の積み重ねの結果

   ・自分で選んだという自覚をもち、選んだ結果に責任を負っているかどうかが大切

 (2)精神的に自立した人の特権

   ・目にみえる状況だけでは、その人が自由に生きられているかどうか、はわからない

   ・どの選択をしたか?ではなく、自分で選んだという認識を伴っているかが重要

   ・自由にやれている感覚をもてるのは、精神的に自立した人だけが得られる特権

【8】面倒を避けて自分が我慢することではない

“引き受けたくて引き受けたわけではない”という感覚=自分は被害者という意識

自分の人生の主導権を握ることができていない=恐れ不安を常に抱えながら生きる

責任をとる行為はしていながら自由にやれている感覚がないのは、とても残念な状態

【9】正しい責任感を持って自立した大人として生きよう

・私たちは人生の主導権を握って生きるかどうかを選択する自由さえ与えられている

自ら進んで「責任」を手にしたという認識があるだけで人生への実感は180度変わる

自ら人生のかじ取りができる=健やかに毎日を生きることに直結する素晴らしい感覚

いかがでしたか?

責任感」や「責任」という言葉に対して、あなたがこれまで抱いていたイメージが変わるきっかけになったり、肩や心にのしかかっていた重みが少しでも軽くなるきっかけをみつけていただけたなら、嬉しいです。

自らの人生のかじ取りをすることを通じて、より健やかで充実した人生を展開していかれることを、心より願っています。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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本気で人生を変えたいあなたへ

長い文章をここまで読んでくださってありがとうございました。

この記事を書いた著者の佐藤 灯(さとう あかり)です。

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そんな想いでライターをさせていただいています。

会社員としてバリバリ働いていた頃の私は、はたから見れば複数の転職を通じてキャリアチェンジキャリアアップを重ねた成功者に見えたかもしれません。

やりがい達成感はもちろんありましたが、常に120%の力を発揮し続けることによってのみ継続できる生活に疲れていました。

いつまでできるかわからないという不安と、この生活を続ける以外に生きる道はないのか?という絶望感で、未来に全く希望を見出せなくなっていました。

そんな中、かなり進んだ進行癌が発覚し、キャリアは中断。

生死の淵に立ち、入院、手術、抗がん剤治療と続く生活の中、自分と向き合う作業を丸2年に渡り重ねました。

その後、会社に戻るという選択をせず独立起業したものの、実働の対価としてお金をいただく働き方では、経済的にも時間的にも自由を得たいという自分が望む未来に近づいていく感じが持てませんでした。

そして私は再び、未来への希望を見出せなくなっていました。

そんな時、ブログを通じてサトリさんのことを知り、論理的な文章に惹かれて読み進めていくうちに、ある時、「コンテンツ資産」という考え方があることを教えていただきました。

これだ!これまで培ってきた知識や経験を人や社会に役立ててもらいながら、時間の自由を得ることができる道がある!

サトリさんを通じてそれまで想像できなかった新しい世界が見え、未来に希望を感じることができました。心に希望のあかりが灯ったのです。

その後、私は、自分にとってベストなネクストステップを模索する方のためのオンライン講座をつくり、そこから収益を得るということを実現することができました。

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